何もない

2008,12月 30 at 4:00 pm (日常)

何もないやる気が出ない。
厭世的な気分に浸ってしまう。
もう耐えられないかもしれない。

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クラッシャージョウ連帯惑星ピザンの危機ー高千穂遙

2008,12月 29 at 4:49 pm ()

スペースオペラは設定やキャラが大切だと思った。

この話に関してはストーリーは正直ありがちなものだと思う。
主人公のジョウがクーデターを起された国の王女を救出し、そのクーデターを起こした人物を倒しに行くというものだ。
レーザー銃の類やアートフラッシュという何だかよくわからないものが出てくるが登場人物に動きがあって面白い。
巨大な生物と戦ったり、鳥獣に襲われたり等々。ありがちだがハラハラさせられた。

なにかを学び取ると言ったような小説じゃないが、読んでいて面白いという点でこのシリーズが気になるところだ。

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こころー夏目漱石

2008,12月 29 at 4:24 pm ()

この作品を読んで行くうちに「私」の考え方に同意できる点が多い事に気付いた。
「先生」のような、多くの人とは何かしら違うところがありそうな人に惹かれると言うのは僕にもある。

実際のところ「私」が「先生」を慕っているように、僕には慕っている人はいない。でもそういう風なひとが現れて欲しいと常々思っている。
大学の教授のような人が良いのかも知れない。
僕の友人の一人は「先生」を教授の一人に見つけたようだ。それ以来何だか生き生きとしている気がする。
それが時にうらやましいと思う時があるから、大学の教授がいいと思うのかもしれない。
授業以外のあらゆることを話せて議論できる人が欲しい。でもそれは年上でかつ尊敬できる人でなければいけない。そして他人とは違うといった自惚を持っていて欲しい。

「先生」の「K」に対しての、接し方は納得できない点があった。
自分でも言及していたが素直に自分の気持ちを言うべきだったし、いささか被害妄想の気もの否めない。
けれど自分の気持ちを吐露したところで「K」は自殺せずに生きていたらみんなが幸せになれていたかというと、どうとも想像がつかない。
ただ「先生」の奥さんの八方美人さも自殺に関係がもつれたのに影響が有ったのはいうまでもないと思う。

「K」の自殺が恋によるものだけではなかったろうが、それに思い詰めていたのは明らかだ。
僕も自殺するほどに悩みたくはないが、思い詰めるほど人を好きになれたらと思う。
最近の僕は「先生」と同じで自分自身含め、人間が嫌いになっている。

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イワン・イリッチの死-トルストイ

2008,12月 27 at 11:52 pm () (, , , )

病気で死んでいく男の精神の悟りと、その取り巻いている人間の心理を描写した作品だった。
生きる意味や人間の身勝手さを考えさせられる。

死にかけてこそ分かることが世の中には有るのだろうか。
生き甲斐とは何なのか。
周りの人間の陳腐さ、理解のなさ。
そして自分の独りよがりの考え。

様々な事が特にこれと言った事件があるわけでもない、イワンの人生によって書かれている気がする。

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忌館-三津田信三

2008,12月 27 at 11:43 pm () (, , , , , )

主人公はある日津口十六人という人物が『百物語といふ物語』と言う作品を、自分の名を騙って小説を新人賞に送っている事を下読みをしていた友人から聞かされる。
その後東京に引っ越した三津田信三は奇妙な場所にある、不気味なイギリスのハーフ・ティンバー様式なる洋館に住むことにするだが、そこで書き始めた小説に津口十六人なる人物を登場することにしてから主人公の奇妙な日常が始まる。

ミステリーとホラーの二つがいい感じに混ざり合っていて、読んでいて恐怖感もありつつ謎解きの楽しみもあり非常に良い作品だった。
独特の陰鬱とした雰囲気が心地よく、猟奇的な描写がそそった。
主人公の心理描写も精神錯乱した感じが良かった。
ラストも意外性のあるミステリーらしい終わり方でよくまとまっていたと感じた。
よく読めば気づくけど、気づいたとき、「あ、そうだったんだ」と思わさせるところに著者の腕が見られるのだろう。
決して理不尽すぎないところが評価できる。

次は単行本で出てるの作品を読んでみたい。

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現実への抵抗としての文化活動

2008,12月 26 at 2:09 pm (日常) (, , )

今の大衆文化の有様は、現実への抵抗からの逃避のだとある学者が言ったらしい。
この意見は全面的に同意できるのだが、抵抗したくても抵抗できない人間が居るのを忘れないで欲しいとも思う。

結局のところ新たな文化を生み出そうと思っても能力がなければ出来ないことだ。
僕だって抵抗したくてしたくて堪らない。しかしどうも自分の限界を感じて無気力になる。
いやまあ努力してないだけだろうと言われればそれまでなのだが。

現実逃避として文化に接することが出来れば、ある意味幸せだろうなと思う。
しかし今に自分にはそれが出来ないのが事実だ。
何に対しても、例えば映画、文学、音楽に接するとき、これを自分のためにしなければとか、作り手の意味を受け止めなければと考えて息苦しくなってしまう。
何日か前に書いたが娯楽として接することが出来ない。
世の中の能力があって作り手になっている人たちはどのような育ち方をしてきたのか気になって仕方がない。
自分みたいに息苦しい考えを持ちつつも耐え抜いた人なのだろうか。
それくらいの気概がなければ、何も生み出せないのかもしれない。
自分にはそれが足りないのだろう。
やるべき事ととどうすればいいのかはわかっている。でもその結果何も成果が出なかったときが怖い。
才能がないのではなくて努力しなかっただけなんだ、といい訳をするための本能が働いて自分にはやる気が出ないのかもしれないと言ったら自惚れだろうか。

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幼年期の終わり-アーサー・C・クラーク

2008,12月 25 at 10:06 pm () (, , , , )

アーサー・C・クラークの作品は哲学的に考えさせられる作品を書く人なのだなぁと思った。
以前読んだ『2001年宇宙の旅』もそうだったが、この『幼年期の終わりも』同様だった。

人類がようやく宇宙に進出するというところに突然未知の高等生物が地球に訪れてきて、その高度な文明、知識により地球に平和をもたらすがその生物の真の目的は何か、というのが大まかな流れだ。

この生物がくることによって人類は真の争いのない平和を手に入れるがそれが本当に幸せなのか、そう考えさせられる。
争いがなくなると新しい文化が造られなくなるとあったが、この考えは何となく理解できた。
何かしらの現状に不満がないと新しいものを生み出す活力が生まれない気がする。結局楽しければ良いという、今あるものを焼きましたものしか生まれ得ないのだろう。
でもそれは争いがなければ進歩しない人間の悲しい性でもあるのだなと思うと悲しくなる。
必要悪ということになるのか。
戦争がある意味で芸術を生み出している面は否定できないと思う。
ピカソの『ゲルニカ』しかり、ドラクロアの『民衆を導く自由の女神』しかり、ゴヤの『マドリード、1808年5月3日』しかり。

人類から戦争を取り上げたら何が残るのだろうか。

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アンドロイドは電気羊の夢を見るか?-フィリップ・K・ディック

2008,12月 25 at 7:44 pm () (, , , )

『ブレードランナー』という映画の原作を読んでみた。
展開の早さと面白さでほとんど一日で読んでしまった。

話の流れは、火星から逃亡してきたアンドロイドをバウンティーハンターの主人公が次々と仕留めて行くというもの。

世界設定は世界最終大戦後地球は多くの死の灰に覆われ、人間たちは植民星に移って行く物がほとんどだった。しかし地球に愛着が捨てられない人々は残って暮らしている。
そして動物をかっていない人間は感情移入能力が欠如しているという偏見で見られる。
マーサー教というマーサーに共感ボックスを通じて皆で喜び苦しみを共有するのが是とされていた。

アンドロイドの非情さが目立った気がする。
ピンボケを利用できるところまで利用しようとする、山羊を突き落とす、性行為をもって情を持たせてからの心理的攻撃、このようなところから感じ取った。
アンドロイドに共感を持ってしまう主人公が不憫でならない。
しかし現実としてロボットが人間味のある姿を持った時、自分はそれに対して、どのような感情を持つのか予想できない。多分何かしらの感情を持ってしまう気がする。
でもおそらく相手は何も感じないのだろうと思うとロボットはロボットらしくあって欲しいと思う。
一時期アイボというものが流行ったが今では全然話を聞かない。あれはあまりに機械的な見た目すぎたからだろうか。例えばそれが本物と見分けがつかないくらい精巧になった時人間は愛情を感じるのだろうか。
でもアイボを昔買って、今はもう捨ててしまったという人はすてる時何を感じたのかが興味ぶかい。

私自身は機械は好きであるが自分が生きているうちは、精巧なアンドロイドは開発されて欲しくはないなとこの小説を読んで強く感じた。

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不似合いなことってするもんじゃないね

2008,12月 23 at 7:29 pm (日常)

友人が関わるということで新木場のスタジオコーストで行われるというファイブスターという団体のファッションショーに行って見た。
それにしても来る人の人種が自分とはぜんぜん違うのなんのって、驚きましたよ。
着く前は勝手に自分と似た人が来るんだろうなと希望的観測をしてた。
あとこじんまりとしたイベントだと思ってたのも見事に外れた。

居た堪れないし楽しみ切れる気もしないので早いとこ退散しましたよっと。
なかなか自分にはファッションショーは敷居が高い。

でも今度不似合いながら能でも見に行ってみようかと思ってる。
こっちは楽しめるといいのだけど。

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娯楽として接する

2008,12月 23 at 10:36 am (日常) (, , , )

なんであれ娯楽として接することを忘れると楽しめなくなるから損だ。
でも本気で取り組まなきゃいけないことがあるのも事実。
ギターも楽しむからやってるのだ、などと綺麗事を言っていたらいつまでもうまくならない。

しかし最初に述べたように娯楽として接することも大切であることはいうまでもないだろう。
近頃私は、何に対しても自分の何かのためにならなければ意味がないと思ってしまって楽しめなくなってる嫌いがある。
本読むにしろこのシーンは覚えとかなければと思って、何のために本を読んでいるのかわからなくなるときがある。

取り組む姿勢の大切さ。
いつも楽しんでばかりでは駄目ではあるが、たまには楽しむための音楽、読書を思い出したいものだと思う。

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